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元和期天守(徳川大坂城)

徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態であった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。

建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。

天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の2つがある。2つの指図は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は名古屋城天守や江戸城天守とほぼ同じ破風配置である。

現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。1928年(昭和3年)に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到し、わずか半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造にサスペンション工法を用いて建てられた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」として利用されている。
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外観は、絵図(大坂夏の陣図屏風)を基に、古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。

大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。

豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。1997年(平成9年)、国の登録有形文化財に登録されている。

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2009年05月31日 08:06に投稿されたエントリーのページです。

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